
サッカーファンなら一度は耳にしたことがある「フォクツ」。彼は西ドイツの名門ボルシアMGで長年活躍し、ドイツ代表としても数々の栄光を手にしてきた。右サイドバックというポジションでプレーし、卓越したプレースタイルを持つ守備職人として知られる。特に1974年ワールドカップ決勝では、トータルフットボールを象徴する天才クライフを封じ込めたことで、その名を歴史に刻んだ。
一方で、フォクツはテクニックに優れた選手ではなく、リフティングが苦手だったというエピソードもある。しかし、それを補って余りある守備の粘り強さと戦術眼で、世界最高峰のディフェンダーの一人となった。選手引退後は監督に転身し、ドイツ代表を率いてUEFA欧州選手権1996で優勝を果たすなど、指導者としても成功を収めた。
また、フォクツは日本のサッカーファンにも意外な形で知られている。サッカー好きで有名な明石家さんまは、彼の名言をたびたび紹介し、そのストイックな姿勢に強い共感を寄せている。この記事では、フォクツの輝かしいキャリアや戦術、そして現代サッカーへの影響を詳しく解説する。
フォクツのプレースタイルとドイツ代表での活躍
- フォクツのポジションと役割
- ボルシアMG時代のフォクツの実績
- フォクツがドイツ代表で果たした役割
- クライフを封じたフォクツの伝説
- リフティングが苦手でも世界一に
フォクツのポジションと役割
フォクツはディフェンダーとしてプレーし、特に右サイドバックのポジションを務めた。身長168cmと小柄ながら、優れた守備力と粘り強さを武器に相手のエースを封じ込める役割を果たした。彼のプレースタイルの特徴は、マンマークの徹底と積極的なタックルだ。対戦相手の動きを最後まで追い続ける姿勢から「テーリア(猟犬)」という異名を持つほどだった。
一方で、守備だけの選手ではなかった。前線への積極的な攻撃参加も得意とし、サイドバックでありながらゴールにも絡むプレーを見せた。特に試合展開を読み、適切なタイミングで攻め上がる能力に優れていた。このように、フォクツは攻守両面で高い影響力を持つサイドバックとして活躍した。
当時のサッカー界では、守備的な役割に特化した選手が多かったが、フォクツは現代サッカーにも通じる「攻撃的サイドバック」の先駆者の一人と言える。彼のプレーは、西ドイツ代表やクラブチームの戦術において重要な柱となっていた。
ボルシアMG時代のフォクツの実績
フォクツは1965年にボルシア・メンヒェングラートバッハ(ボルシアMG)に加入し、引退する1979年までの14年間を同クラブで過ごした。この間、ボルシアMGは黄金時代を迎え、国内外で数々のタイトルを獲得した。
クラブでの最大の功績は、ブンデスリーガ優勝5回(1969-70、1970-71、1974-75、1975-76、1976-77)という記録だ。当時のボルシアMGは、バイエルン・ミュンヘンと並ぶドイツの強豪クラブとして君臨しており、その中心選手の一人がフォクツだった。また、1972-73シーズンにはDFBポカール(ドイツ国内カップ戦)で優勝し、さらにUEFAカップでも2度(1974-75、1978-79)優勝を果たした。
フォクツの個人としての実績も素晴らしく、ブンデスリーガ通算419試合に出場し、33ゴールを記録している。守備的な選手としては異例の得点数であり、攻撃参加の積極性を示している。また、UEFAカップでも64試合に出場し、8ゴールを決めるなど、欧州の舞台でもその実力を発揮した。
ボルシアMGでの活躍により、彼はドイツ国内外で「世界屈指のディフェンダー」と称されるようになった。その実績が評価され、後にドイツ代表の中心選手となる道を切り開いた。
フォクツがドイツ代表で果たした役割
フォクツは1967年に西ドイツ代表デビューを果たし、1978年までの11年間で96試合に出場した。その間、3度のFIFAワールドカップ(1970年、1974年、1978年)に出場し、特に1974年大会では優勝に大きく貢献した。
彼の代表チームでの最大の功績は、1974年ワールドカップ決勝でオランダのエース、ヨハン・クライフを徹底的に封じ込めたことだ。クライフは「トータルフットボール」の象徴として圧倒的な存在感を誇っていたが、フォクツの粘り強いマンマークによって自由を奪われた。この試合が、彼のディフェンダーとしての評価を決定づけるものとなった。
また、1972年のUEFA欧州選手権(EURO)では、西ドイツ代表の優勝メンバーとして活躍。ディフェンスラインの要として、チームの守備を支えた。さらに、1976年のEUROでは準優勝を経験し、国際舞台での安定したパフォーマンスを示し続けた。
フォクツはキャプテンとしてもチームを牽引し、1978年のワールドカップでは代表主将を務めた。結果として優勝には至らなかったが、そのリーダーシップは高く評価されている。
守備的なポジションでありながら、攻撃参加やチームの精神的支柱としての役割も担ったフォクツは、西ドイツ代表の成功に欠かせない存在だった。その後、指導者としても代表チームを率いることになり、彼の影響力は長く続くこととなる。
クライフを封じたフォクツの伝説
1974年ワールドカップ決勝戦、西ドイツ対オランダ。この試合は「トータルフットボール」を体現したオランダ代表と、「堅実な守備とチーム戦術」を重視する西ドイツ代表の対決として、歴史に残る一戦となった。そして、この試合の勝敗を大きく左右したのが、フォクツのヨハン・クライフへの徹底したマンマークだった。
試合開始直後、クライフの華麗なドリブル突破からオランダはPKを獲得し、わずか1分で先制する。ここまではオランダのペースだったが、その後、フォクツはクライフに張り付き、一切の自由を与えなかった。オランダの攻撃はクライフを中心に展開されるが、フォクツは彼の動きを読み、素早く対応。クライフがボールを受ける前にプレッシャーをかけ、シュートやパスの選択肢を狭めた。
その結果、クライフの影響力は次第に低下し、オランダの攻撃は停滞。試合の流れは西ドイツに傾き、最終的に2-1で勝利。西ドイツはワールドカップ優勝を果たした。この試合のフォクツの活躍は、世界中のサッカーファンに衝撃を与え、「クライフを封じた男」として彼の名を歴史に刻んだ。
リフティングが苦手でも世界一に
フォクツは、サッカー選手として驚異的な守備力を誇ったが、実はリフティングが得意ではなかったというエピソードが残っている。彼自身が「ボールリフティングは3回しかできない」と語っており、これは一般的なプロ選手のイメージとはかけ離れたものだった。しかし、この事実は「リフティングができなくても世界トップクラスの選手になれる」という証明にもなった。
サッカーにおいてリフティングは重要なスキルの一つではあるが、それがすべてではない。フォクツの強みは、相手に食らいつく粘り強いディフェンス、試合の流れを読む洞察力、そして相手のエースを封じ込める戦術眼だった。彼はフィジカルの強さと精神力を武器にし、戦術的な役割を完璧にこなすことで、西ドイツ代表やボルシアMGで大きな成功を収めた。
特に1974年ワールドカップ決勝での活躍は、その象徴とも言える。クライフという天才プレーヤーを封じ、最終的にチームを世界一へと導いた。このエピソードは「技術だけでなく、戦術的な適応力とメンタルの強さがサッカー選手にとって重要である」ということを示している。フォクツのように、リフティングが苦手でも世界の頂点に立つことは可能なのだ。
フォクツの監督キャリアと意外な一面
- フォクツが監督として築いた戦績
- 明石家さんまが語るフォクツの魅力
- フォクツの戦術と現代サッカーへの影響
- 指導者としてのフォクツの哲学
フォクツが監督として築いた戦績
フォクツは1979年に現役を引退した後、指導者の道を歩み始めた。最初は西ドイツU-21代表の監督を務め、若手の育成に力を注いだ。その後、1986年から西ドイツA代表のアシスタントコーチに就任し、1990年ワールドカップ優勝を支えた。そして、同年にフランツ・ベッケンバウアーの後任としてドイツ代表監督に就任し、本格的な監督キャリアをスタートさせた。
フォクツが指揮を執った1990年代のドイツ代表は、1992年のUEFA欧州選手権(EURO)で準優勝、続く1996年大会では優勝を果たした。この1996年のEURO制覇は、統一後のドイツ代表にとって初めての国際タイトルであり、フォクツの指導力が高く評価される結果となった。しかし、1994年と1998年のワールドカップではいずれも準々決勝で敗退し、1998年に代表監督を辞任した。
その後、クラブチームや各国代表の監督を歴任。2000年にレヴァークーゼンの監督に就任するも1年で退任。その後、クウェート、スコットランド、ナイジェリア、アゼルバイジャンといった国々の代表チームを率いた。特に2008年から2014年まで指揮したアゼルバイジャン代表では、長期政権を築き、戦術の基礎を構築する役割を果たした。
フォクツの監督としての特徴は、規律を重視し、チーム全体で戦う戦術を徹底する点にあった。個の力に依存せず、組織的な守備と素早い攻守の切り替えを軸とするスタイルは、選手時代の彼のプレースタイルとも共通するものだった。指導者としてのキャリアはドイツ代表時代ほどの成功には至らなかったが、堅実な戦術家として世界のサッカー界に影響を与えた。
明石家さんまが語るフォクツの魅力
日本の人気お笑い芸人であり、熱烈なサッカーファンとしても知られる明石家さんまは、フォクツのプレースタイルや名言に強い影響を受けている。特に、フォクツが発した「なぜ人と違うことをしないのか?」という記者の質問に対する「人と違うことをやっています。(何を?)練習です。」という言葉を絶賛している。
さんまは、フォクツのこの言葉を「本当にかっこいい」と語り、自身がサッカー番組やバラエティ番組でたびたび紹介している。フォクツの言葉は、単なるサッカーの話にとどまらず、努力の大切さや継続することの重要性を示唆するものとして、多くの人に響いている。
また、フォクツのプレースタイルにも共感を寄せており、「派手さはないけれど、地道な努力と献身的なプレーでチームを支える選手」として評価している。特に、1974年ワールドカップ決勝でクライフを封じたマンマークの徹底ぶりには、「見ていて痺れた」と述べている。
サッカーの華やかな側面だけでなく、泥臭くてもチームのために走り続ける選手に魅力を感じるさんまにとって、フォクツは理想のプレーヤーの一人だったのかもしれない。彼の語るフォクツの魅力は、日本のサッカーファンにもフォクツの偉大さを伝えるきっかけとなっている。
フォクツの戦術と現代サッカーへの影響
フォクツは、選手時代の粘り強いディフェンスと戦術眼を指導者としても活かし、規律を重視した堅実な戦術を展開した。彼の戦術の中心は、組織的な守備と徹底したマンマークにあった。特に相手のエースを封じる守備戦略は、選手時代にヨハン・クライフを抑えた経験に基づいたものだった。
フォクツのチームは、攻撃面でも特徴があった。守備を固めた上で、速い攻守の切り替えを重視し、シンプルなカウンターアタックを多用した。1996年のUEFA欧州選手権では、リベロのマティアス・ザマーを中心に、堅守速攻のスタイルを確立。決勝戦ではチェコを相手に延長戦のゴールデンゴールで勝利し、ドイツを欧州王者へ導いた。
現代サッカーにおいても、フォクツの戦術は影響を与えている。例えば、個の能力が突出した選手に対して、専任のマーカーをつける戦略は、現在の試合でも見られる。さらに、コンパクトな守備と素早い攻撃の切り替えは、現代のトップチームにも共通する要素だ。フォクツの指導方法や守備戦術は、現在も多くの指導者に受け継がれている。
指導者としてのフォクツの哲学
フォクツの指導哲学は、徹底した「チームワークの重要性」と「規律の徹底」にあった。彼は個の才能に頼るのではなく、全員がハードワークをし、組織的に戦うことを最優先した。選手時代から粘り強いディフェンスを武器としていた彼は、指導者としてもチーム全体の守備意識を高めることに重点を置いた。
また、選手の育成にも力を入れた。特に若手選手の起用に積極的であり、ドイツ代表監督時代には次世代のスターを発掘し、長期的なチーム強化を図った。彼が指導した世代の中には、後にドイツ代表の中心選手として活躍する者も多かった。
一方で、厳格な指導スタイルが一部の選手と衝突することもあった。特にフォクツの戦術に適応できない選手は起用されにくく、柔軟性に欠けるという批判もあった。しかし、彼の哲学は、勝利のために組織の力を最大限に引き出すことにあり、ドイツサッカーの基盤を築くうえで大きな役割を果たした。フォクツの指導理念は、サッカーにおける「チームで戦う」という原則の大切さを改めて示している。
フォクツのキャリアとサッカー界への影響
この記事のポイントをまとめよう。
- フォクツは右サイドバックとして活躍し、粘り強い守備が持ち味
- 「テーリア(猟犬)」の異名を持ち、マンマークに優れていた
- 攻撃参加も得意とし、得点やアシストにも貢献した
- ボルシアMGで14年間プレーし、クラブの黄金時代を支えた
- ブンデスリーガで5回優勝し、UEFAカップでも2度のタイトルを獲得
- 1974年ワールドカップ決勝でクライフを封じ込め、西ドイツを優勝に導いた
- 西ドイツ代表で96試合に出場し、主将も務めた
- 1990年にドイツ代表監督に就任し、1996年のEURO優勝を達成
- クウェート、スコットランド、ナイジェリア、アゼルバイジャンなど各国の代表監督を歴任
- リフティングは苦手だったが、守備と戦術眼で世界トップレベルの選手となった
- 守備の規律とチームワークを重視する戦術を指導者としても貫いた
- 現代サッカーに通じるコンパクトな守備と速攻を取り入れた
- 明石家さんまがフォクツの名言を絶賛し、サッカー哲学に共感を示した
- 選手育成にも力を入れ、次世代のドイツ代表選手の成長をサポートした
- チーム全体の献身性を重視し、個の才能より組織的な戦い方を優先した