
サッカー史に名を刻むトスタンは、1970年のワールドカップでブラジル代表を優勝に導いた伝説のフォワードである。彼のプレースタイルは従来のストライカーとは異なり、中盤に下がりながら攻撃を組み立てる「偽9番」として機能した。その柔軟な動きは、ザガロ監督の戦術にもマッチし、チームの攻撃を支えた。
また、クラブでは「8番」、ブラジル代表では「9番」を着用し、1972年には「10番」を背負うこともあった。特にペレとのコンビネーションは圧巻で、流動的な攻撃を生み出し、多くのゴールを演出した。しかし、試合中の怪我による視力低下が原因で、わずか26歳で引退を決意。その後は医学を学び、内科医として新たな人生を歩んだ。
本記事では、トスタンのポジションや背番号、輝かしいキャリアと引退後の軌跡について詳しく解説する。
トスタンのプレースタイルと軌跡
- トスタンのポジションは?天才的役割とは
- トスタンのプレースタイルとは?その独自性
- トスタンの背番号はいくつ?歴史的なナンバー
トスタンのポジションは?天才的役割とは
トスタンの主なポジションはフォワードだが、伝統的な点取り屋とは異なり、攻撃の組み立ても担う選手だった。純粋なストライカーというよりも、現代でいう「フォールス・ナイン(偽9番)」に近いプレースタイルを持ち、ゴールだけでなくアシストやゲームメイクにも関与していた。
通常のフォワードはゴール前での得点力が求められるが、トスタンは中盤に降りてボールを受け、パスを供給することで攻撃の起点となることが多かった。1970年のワールドカップでは、ペレやジャイルジーニョと連携しながら前線で流動的に動き、ブラジル代表の攻撃を活性化させた。
この柔軟な動きによって、相手ディフェンダーはトスタンをマークしづらくなり、彼のポジショニングが生み出したスペースをペレやリベリーノが活用することができた。単なる得点役ではなく、味方を活かしながらチーム全体の攻撃を支えるプレーヤーだったことが、彼の最大の特徴と言える。
トスタンのプレースタイルとは?その独自性
トスタンのプレースタイルは、技術力と知性を兼ね備えたものだった。ドリブルやパスの精度が高く、冷静な判断力を持ち、試合をコントロールする能力に長けていた。特に、視野の広さと瞬時の判断力は際立っており、狭いスペースでも正確なパスを供給することができた。
また、左足のキック精度が高く、ミドルシュートやスルーパスで多くのチャンスを作り出した。ただし、身長は172cmと小柄でフィジカルが強いタイプではなかったため、相手と競り合うよりもポジショニングや巧みな動きで優位に立つプレースタイルを取っていた。
特に1970年のワールドカップでは、フォワードとしてプレーしながら頻繁に中盤に降り、ペレやジェルソンと連携しながら攻撃を組み立てた。この流動的なプレーがブラジル代表の攻撃の鍵となり、チームの優勝に大きく貢献した。
一方で、網膜剥離という深刻な怪我の影響で視力が低下し、選手生命を早く終えることになった。しかし、知性とテクニックを活かした彼のプレースタイルは、今でも多くのサッカーファンの記憶に残っている。
トスタンの背番号はいくつ?歴史的なナンバー
トスタンが着用した背番号は、所属クラブとブラジル代表で異なっていた。クルゼイロECでは主に「8番」をつけてプレーしていたが、ブラジル代表では「9番」を任されることが多かった。1970年のワールドカップでも、彼は9番を背負い、ブラジルの攻撃を支えた。
一般的に「9番」は純粋なストライカーがつけることが多いが、トスタンの場合はその役割がやや異なっていた。彼はフォワードでありながら、攻撃の組み立てにも関与し、ペレやリベリーノ、ジャイルジーニョと流動的にポジションを変えながらプレーしていた。そのため、トスタンの9番は典型的なセンターフォワードのものではなく、むしろ柔軟な役割を象徴する背番号となった。
また、トスタンは1972年の独立記念杯で「10番」をつけたこともある。これはブラジル代表において特別な意味を持つ番号であり、ペレをはじめとする歴代の名選手が着用してきたものだった。短期間ではあるが、彼の技術と知性を評価する声は多く、10番を背負うにふさわしい選手だったと言える。
トスタンの背番号は、単なる数字ではなく、彼のプレースタイルやチームでの役割を象徴するものだった。クラブでの8番、代表での9番、そして一時的な10番、それぞれが彼の歴史の一部として語り継がれている。
トスタンのブラジル代表での活躍と引退後の人生
- 70年ワールドカップでのトスタンの輝き
- ペレとの共演が生んだ伝説のコンビ
- ザガロ監督の戦術とトスタンの役割
- トスタンの引退後は?医師としての第二の人生
- トスタンの影響とサッカー界での評価
70年ワールドカップでのトスタンの輝き
1970年のワールドカップは、トスタンにとってキャリアの頂点となる大会だった。ブラジル代表は、この大会で攻撃的かつ魅力的なサッカーを展開し、世界中のファンを魅了した。トスタンは、その中心的な役割を担い、6試合すべてに先発出場してチームの優勝に貢献した。
この大会で彼が果たした最大の役割は、「偽9番」としてのプレーだった。彼はフォワードのポジションにいながらも、時には中盤に下がってボールを受け、攻撃の組み立てをサポートした。これにより、相手ディフェンダーを引きつけ、ペレやジャイルジーニョ、リベリーノといった攻撃陣が生きるスペースを作り出した。特に準々決勝のペルー戦では2ゴールを決め、ブラジルの勝利に大きく貢献した。
また、イングランドとのグループリーグ戦では、左サイドで2~3人のマークをかわし、ペレに絶妙なパスを供給。このプレーが決勝点につながり、ブラジルは強豪イングランドを破ることに成功した。この試合をきっかけに、トスタンはザガロ監督の信頼を確かなものとし、以降の試合でも欠かせない存在となった。
最終的にブラジルは決勝でイタリアを4-1で下し、史上初のワールドカップ3度目の優勝を果たした。この快挙によって、トスタンの名前は世界中に知れ渡り、彼のプレースタイルは「美しいサッカー」を象徴するものとして語り継がれるようになった。
ペレとの共演が生んだ伝説のコンビ
トスタンのキャリアにおいて、ペレとのコンビネーションは欠かせない要素だった。彼らは1966年のワールドカップでも共演していたが、本領を発揮したのは1970年のメキシコ大会だった。
ペレは言わずと知れた史上最高のサッカー選手の一人であり、圧倒的な決定力とテクニックを持つ存在だった。一方のトスタンは、ペレを支えるプレーメーカーとして機能し、試合の流れをコントロールする役割を担っていた。彼は「偽9番」として前線と中盤をつなぎ、ペレが自由にプレーできる環境を作り出していた。
特にイングランド戦では、ペレへのアシストが決勝ゴールを生み出し、ブラジルの勝利を決定づけた。また、準々決勝のペルー戦では、ペレとの息の合ったパス交換から2ゴールを決め、チームの勝利に大きく貢献した。このように、トスタンの動きによって生まれたスペースをペレが活かし、逆にペレのプレーがトスタンの能力を最大限に引き出していた。
このコンビの成功の背景には、単なる技術の高さだけでなく、お互いのプレースタイルを深く理解し合っていたことが挙げられる。ペレは「トスタンがいるとプレーがしやすい」と語っており、トスタンも「ペレと一緒にプレーすることで、自分の役割がより明確になった」と述べている。
結果的に、トスタンとペレのコンビは、1970年のワールドカップでブラジル代表を史上最強のチームへと導いた。この二人の共演は、サッカー史において今でも語り継がれる伝説となっている。
ザガロ監督の戦術とトスタンの役割
1970年のワールドカップでブラジル代表を優勝に導いたマリオ・ザガロ監督は、当時としては革新的な戦術を採用していた。それまでブラジル代表は4-2-4の攻撃的なシステムを基本としていたが、ザガロはよりバランスの取れた4-3-3のフォーメーションを採用し、攻撃と守備の安定を図った。
この戦術において、トスタンは非常に重要な役割を果たした。彼はフォワード(9番)のポジションに位置していたものの、純粋なセンターフォワードではなく、中盤に下がって攻撃を組み立てる「偽9番」としてプレーした。この動きによって相手ディフェンダーを引きつけ、ペレやジャイルジーニョ、リベリーノといったアタッカー陣が生きるスペースを作り出した。
特に、トスタンのプレーメイク能力と視野の広さは、ザガロの戦術に不可欠だった。彼が中盤に降りることで、ジェルソンやクロドアウドと連携しながらボールを回し、攻撃の起点となる役割を担った。また、フィニッシャーとしても優れており、準々決勝のペルー戦では2ゴールを記録するなど、チームの得点源としても活躍した。
このように、トスタンの柔軟なプレースタイルは、ザガロのシステムと完璧にマッチしていた。結果としてブラジルは大会を通じて圧倒的な攻撃力を発揮し、決勝でイタリアを4-1で下して優勝を果たした。トスタンの貢献は、ザガロの戦術の成功において欠かせない要素だったと言える。
トスタンの引退後は?医師としての第二の人生
トスタンは、1973年にわずか26歳という若さで現役を引退した。引退の大きな理由となったのは、網膜剥離による視力の低下だった。1969年の試合中に顔面にボールが直撃し、網膜剥離を発症。その後、手術を受けてプレーを続けたが、視力の低下は避けられず、医師から「サッカーを続ければ失明のリスクが高まる」と警告された。これを受け、トスタンはプロサッカー選手としてのキャリアに終止符を打つ決断をした。
引退後、彼は意外な道を歩むことになった。サッカー界には残らず、医師を目指して医学を学び、内科医としてのキャリアを築いたのである。サッカー選手が引退後に指導者や解説者になるケースは多いが、トスタンのように医師へと転身した例は非常に珍しい。
内科医として活動する間、トスタンはサッカー界とは距離を置いていたが、やがてメディアの求めに応じる形で再び表舞台に登場するようになった。近年では、ジャーナリストや解説者として活躍し、ブラジル国内外のメディアでサッカーに関する意見を発信している。
このように、トスタンは選手としてだけでなく、引退後の人生においても独自の道を歩んだ人物である。サッカー界での成功に満足せず、新たなキャリアに挑戦したことは、多くの人々にとって大きなインスピレーションとなっている。
トスタンの影響とサッカー界での評価
トスタンは、ブラジルサッカーの歴史において特別な存在であり、多くの選手や戦術に影響を与えた。その影響の一つが、「フォールス・ナイン(偽9番)」というプレースタイルの先駆者であった点だ。彼のように前線に位置しながらも中盤に下がり、攻撃を組み立てる動きは、後のサッカー界において「柔軟なフォワード像」として受け継がれた。
例えば、スペイン代表やFCバルセロナで活躍したリオネル・メッシは、トスタンのように偽9番としてプレーし、チームの攻撃を牽引した。また、オランダのヨハン・クライフもトスタンと同じように、攻撃的なポジションにいながらゲームメイクを行うプレースタイルを確立した。トスタンの動き方は、現代サッカーにおけるフォワードの役割に大きな影響を与えている。
また、彼の名前は数々のランキングにも登場している。1999年には、「20世紀の偉大なサッカー選手100人」(ワールドサッカー誌選出)で53位にランクイン。これは、ブラジルの歴代名選手の中でも高く評価されている証拠だ。
しかし一方で、トスタンのキャリアは26歳という若さで終わってしまったため、もっと長くプレーしていたらどうなっていたのか、という「もしも」の議論も絶えない。特に1974年のワールドカップに彼が出場していたら、ブラジルはどのような結果を残したのか、という話題は今でもサッカーファンの間で語られることがある。
このように、トスタンはサッカー史において重要な足跡を残し、多くの人々に影響を与え続けている。そのプレースタイルや戦術的な役割は、今なお現代サッカーにおいて語り継がれるレガシーとなっている。
トスタンの軌跡とサッカー界への影響
この記事のポイントをまとめよう。
- トスタンはフォワードとしてプレーしたが、攻撃の組み立てにも関与した
- 伝統的なストライカーではなく、現代でいう「偽9番」の役割を果たした
- 1970年のワールドカップではペレやジャイルジーニョと連携し活躍した
- 相手ディフェンダーを引きつけ、味方にスペースを作る動きが特徴的だった
- 高い視野とパス精度を持ち、試合の流れをコントロールする能力に優れた
- クルゼイロでは「8番」、ブラジル代表では主に「9番」を着用した
- 1972年の独立記念杯では「10番」を任され、特別な評価を受けた
- ザガロ監督の戦術において、柔軟な動きで攻撃の鍵を握る存在だった
- 1970年ワールドカップ決勝ではイタリア相手に4-1の勝利に貢献した
- ペレと絶妙なコンビネーションを形成し、攻撃の幅を広げた
- 1969年に網膜剥離を発症し、視力低下により26歳で現役を引退した
- 引退後はサッカー界を離れ、医学を学び内科医として活動した
- その後、サッカー解説者としてメディアに登場し評論活動を行った
- 「フォールス・ナイン」の先駆者として、後の選手に影響を与えた
- 1999年に「20世紀の偉大なサッカー選手100人」の53位に選ばれた