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リベリーノ サッカー史に刻まれた左足の魔術師

リベリーノ サッカー史に刻まれた左足の魔術師
↑イメージ:フットボール・レジェンダリー

リベリーノは、ブラジルサッカー界に名を刻む伝説的なプレーヤーであり、そのプレースタイルは今なお多くのファンや選手たちに影響を与えている。特に「左足の魔術師」と称されるほどの正確なキックと強烈なシュートは、サッカー史に残るものだ。彼の代表的なテクニックとして、エラシコ フェイントがあり、相手ディフェンダーを翻弄する華麗なドリブル技術は、多くの後継者に受け継がれた。

キャリアのスタートはブラジルの名門コリンチャスで、ここで圧倒的な攻撃センスを開花させた。その後、フルミネンセに移籍し、チームの攻撃の核として活躍。さらに、サウジアラビアのアル・ヒラルでもプレーし、中東のサッカー発展にも貢献した。また、ブラジル代表として3度のワールドカップに出場し、1970年のメキシコ大会では優勝を果たしている。彼の代名詞であるフリーキックは、壁を抜くトリッキーなシュートや強烈なキックで、数々の伝説的なゴールを生み出した。

引退後は監督としても活動し、1994年にはJリーグの清水エスパルスを指揮。しかし、短期間でチームを離れることとなった。現在は解説者や評論家として活躍し、サッカー界における影響を今も与え続けている。そんなリベリーノのサッカー人生とプレースタイルについて、詳しく見ていこう。

この記事でわかること

  • リベリーノのプレースタイルと技術の特徴
  • コリンチャス、フルミネンセ、アル・ヒラルでの活躍
  • ブラジル代表としての功績とワールドカップでの活躍
  • 引退後の監督経験や現在のサッカー界への影響

リベリーノ サッカー界の伝説とプレースタイル

  • 左足に特化したプレースタイル
  • コリンチャス時代の活躍と成長
  • フルミネンセでの飛躍とタイトル獲得
  • ブラジル代表としての輝かしい功績
  • アル・ヒラル移籍と晩年のプレー

左足に特化したプレースタイル

リベリーノのプレースタイルを語る上で、最も際立つ特徴はその左足の精度と強さだ。強烈なシュート、正確なパス、卓越したドリブル技術をすべて左足で操り、「左足の魔術師」と称された。彼のプレーは、ただのテクニックにとどまらず、戦術的な武器として機能していた。

特にフリーキックの精度は圧倒的で、壁の間を正確に抜くトリッキーなシュートや、GKの届かないコースを狙う力強いキックが持ち味だった。また、「エラシコ」と呼ばれる独特のフェイント技術も駆使し、相手を翻弄するシーンが多く見られた。この技は、左足のアウトサイドでボールを外へ押し出すように見せかけ、瞬時にインサイドで方向を変えることで相手を抜き去るものだ。

一方で、右足の使用頻度は決して高くなく、プレースタイルが左足に依存していた点は否めない。これは彼の武器であると同時に、対策を練られやすい側面もあった。しかし、左足だけで完璧に試合をコントロールできる技術と戦術眼があったため、相手ディフェンダーが読んでいても止めることが難しかった。こうした特徴が、リベリーノを唯一無二のプレーヤーとして際立たせた要因だ。

コリンチャス時代の活躍と成長

リベリーノは1962年にコリンチャスへ加入し、当時若干16歳ながら、その非凡な才能をすぐに発揮した。1965年にはトップチームで公式戦デビューを果たし、瞬く間に中心選手へと成長した。特に彼のプレースタイルは、当時のコリンチャスに新たな攻撃の可能性をもたらし、多くの試合でチームを牽引した。

コリンチャスでは、彼の左足から繰り出される正確なパスと強烈なシュートが武器となり、多くのゴールとアシストを記録した。さらに、ドリブル技術も秀でており、ディフェンダーを翻弄するプレーで観客を魅了した。また、クラブの練習や試合を通じて「エラシコ」のフェイント技術を磨き、後にこの技が世界に広まるきっかけとなった。

しかし、チームの戦績には恵まれず、在籍中に主要タイトルを獲得することはできなかった。このため、サポーターやクラブ内部からの期待とプレッシャーが次第に強まり、1975年にフルミネンセへの移籍を決断することになる。それでも、コリンチャス時代に培った経験は彼のキャリアの基盤となり、後の成功へとつながっていった。

フルミネンセでの飛躍とタイトル獲得

1975年にコリンチャスを離れたリベリーノは、リオ・デ・ジャネイロの名門フルミネンセへ移籍した。この移籍は彼のキャリアにとって大きな転機となり、より攻撃的なスタイルを持つチームで自身のプレーを存分に発揮することができた。

フルミネンセでは、彼のプレーメーカーとしての能力がさらに開花し、左足の精度の高いキックを活かしたゴールやアシストを量産した。特にリオ州選手権では、その影響力が際立ち、1975年と1976年に連覇を達成。この時期のフルミネンセは「マキノ・トリコロール(三色の機械)」と呼ばれ、攻撃的なサッカーで注目を集めた。

また、経験を積む中で、彼のプレースタイルにも変化が生まれた。コリンチャス時代よりもゲームメイクの役割が増え、試合全体をコントロールする能力が向上した。さらに、フリーキックの精度もますます磨かれ、多くの決定的なゴールを生み出した。一方で、チームの方針や戦術の違いから、彼自身のプレーに対する適応力が求められる場面も多かったが、それを克服し、新たな環境で結果を残した。

フルミネンセでの成功は、彼のキャリアにおいて非常に重要なものとなり、ブラジル国内のみならず、世界中のサッカーファンにその名を刻むこととなった。

ブラジル代表としての輝かしい功績

リベリーノは1965年に19歳でブラジル代表に初選出され、以降13年間にわたって代表の中心選手として活躍した。特に1970年のメキシコ・ワールドカップでは、攻撃的なサッカーを象徴する選手の一人として、優勝に大きく貢献した。

この大会では、左ウィングとしてレギュラーに定着し、ペレやジャイルジーニョ、トスタンといった名選手とともに強力な攻撃陣を形成。初戦のチェコスロバキア戦ではフリーキックを直接決めるなど、印象的なプレーを披露した。また、準々決勝のペルー戦では1ゴール2アシストの活躍を見せ、決勝のイタリア戦ではペレへのアシストを記録。最終的に7戦全勝で大会を制し、ブラジルに3度目のワールドカップ優勝をもたらした。

その後、ペレが代表を引退すると、リベリーノは10番を背負い、チームの中心としてプレー。1974年の西ドイツ大会では主力として活躍し、東ドイツ戦では伝説的なフリーキックを決めた。しかし、準決勝でオランダに敗れ、最終的に4位に終わった。さらに、1978年のアルゼンチン大会では、キャプテンとしてチームを率いたものの、足の負傷により満足にプレーできず、大会3位という結果に終わった。

代表キャリアを通じて、リベリーノは122試合に出場し、43得点を記録。華麗なプレースタイルと左足の正確なキックで、多くのファンを魅了した。ブラジル代表史に名を刻む名選手の一人として、今でも語り継がれている。

アル・ヒラル移籍と晩年のプレー

リベリーノは1979年にサウジアラビアの強豪クラブ、アル・ヒラルへ移籍した。ブラジル国内でのキャリアを終え、新たな挑戦の場として中東を選んだ理由には、クラブ側からの好条件のオファーと、当時のサウジアラビアサッカーの発展に貢献したいという意向があったとされる。

アル・ヒラルでは、持ち前の技術と経験を活かし、チームの中心選手としてプレーした。左足の正確なパスと強烈なシュートは健在であり、多くの試合で得点やアシストを記録。特にフリーキックの精度は衰えず、試合の流れを決定づける重要なゴールを幾度となく決めた。彼の加入によって、アル・ヒラルの攻撃力は大幅に向上し、リーグ戦や国内カップで好成績を収める要因となった。

しかし、一方で年齢による衰えも避けられなかった。試合ごとの運動量は減少し、若い選手と比べるとスピード面での差が目立つようになった。それでも、卓越した技術と試合を読む力で、チームに貢献し続けた。アル・ヒラルでの3年間のプレーを経て、1982年に現役を引退。リベリーノはサウジアラビアでの経験を「キャリアの締めくくりとして素晴らしいものだった」と語り、サッカー選手としての人生に幕を下ろした。

リベリーノ サッカー人生の軌跡と現在

  • エラシコ フェイントの誕生と影響
  • フリーキックの名手としての評価
  • 監督としての挑戦と清水エスパルス時代
  • 現在の活動とサッカー界への影響

エラシコ フェイントの誕生と影響

リベリーノの代名詞の一つである「エラシコ」は、彼のフェイント技術の象徴であり、現在も世界中のプレーヤーに影響を与えている。この技は、ボールを左足のアウトサイドで外に押し出すと見せかけ、直後にインサイドで瞬時に切り返して相手をかわすもの。弾かれた輪ゴムのようにボールが急激に変化することから、「エラシコ(ポルトガル語で輪ゴムの意味)」と名付けられた。

このフェイントの起源については諸説あるが、リベリーノ自身は、当時のコリンチャスのチームメイトであった日系ブラジル人のセルジオ越後から教わったと語っている。セルジオはガリンシャのフェイントとペレの動きを組み合わせて独自に開発し、それをリベリーノがさらに洗練させた。

エラシコが世界的に有名になったのは、リベリーノが1970年のワールドカップでこのフェイントを多用し、相手を翻弄したことがきっかけだった。その後、この技はブラジル国内だけでなく、ヨーロッパやアジアの選手にも影響を与え、ロナウジーニョをはじめとする数多くの選手がこの技を武器として使うようになった。

ただし、このフェイントはタイミングやボールコントロールが非常に難しく、成功させるには高い技術が求められる。習得するには、正確な足の動きと相手の重心を見極める能力が不可欠であり、単に真似するだけでは効果を発揮しにくい。にもかかわらず、リベリーノのエラシコは、今でもサッカー界の象徴的なフェイントとして多くのプレイヤーに影響を与え続けている。

フリーキックの名手としての評価

リベリーノは、歴代のサッカー選手の中でも屈指のフリーキックの名手として知られている。特に、左足から放たれる強烈かつ正確なシュートは、多くのゴールキーパーを苦しめた。彼のフリーキックは、単にパワーだけでなく、軌道やコースの精度にも優れ、ゴールの隅を狙うシュートが得意だった。

1970年のワールドカップ・メキシコ大会では、チェコスロバキア戦で見せた直接フリーキックが特に有名である。また、1974年の西ドイツ大会では、東ドイツ戦での「壁の間を通すフリーキック」が伝説的な一撃となった。このゴールは、味方のジャイルジーニョが相手の壁に入り込み、ボールを蹴る瞬間にしゃがむことで、壁の隙間を作り出したものだった。この戦術は非常に珍しく、相手GKは反応できなかった。

リベリーノのフリーキックは、ただのシュートではなく、相手の守備を崩す戦術の一部として機能していた。彼のように強烈なシュートを蹴る選手は当時それほど多くなく、試合の流れを一瞬で変える存在だった。その影響は後の世代にも受け継がれ、ジーコ、ロベルト・カルロス、ロナウジーニョといったブラジルのフリーキックの名手たちにも影響を与えた。

一方で、フリーキックの精度を維持するには絶え間ない練習が必要であり、リベリーノも日々のトレーニングを欠かさなかったとされる。また、試合ごとに異なる壁の位置や守備の陣形に対応するため、蹴り方のバリエーションも豊富だった。このような努力があったからこそ、彼は「左足の魔術師」と称され、サッカー史に残るフリーキックの名手となった。

監督としての挑戦と清水エスパルス時代

現役引退後、リベリーノは指導者として新たな道を歩み始めた。解説者やサッカー評論家としての活動を行う一方で、1994年には日本のJリーグ・清水エスパルスの監督に就任。これは、当時のJリーグが世界的なスターを招聘し、リーグ全体のレベル向上を目指していた流れの一環でもあった。

監督としてのリベリーノは、選手時代と同様に攻撃的なサッカーを志向し、個々の選手の技術を活かすスタイルを取り入れた。特に、セットプレーやフリーキックの精度向上に力を入れ、選手たちに実戦的な技術指導を行った。しかし、Jリーグでの指導経験がなかったことも影響し、戦術面での柔軟性に欠ける部分があった。

また、言葉の壁や日本のサッカー文化への適応にも苦労したとされる。当時の清水エスパルスは若手中心のチームであり、経験豊富な指導者のもとでの成長が期待されていたが、結果としてチームの成績は振るわず、リベリーノはわずか半年で退任することになった。この短期間での指導は彼にとっても試練だったが、日本のサッカー界にブラジル流の技術を伝えたことは確かであり、後に彼の教えを受けた選手たちの成長につながった。

現在の活動とサッカー界への影響

リベリーノは現在、解説者やサッカー評論家として活動しながら、サッカー界とのつながりを維持している。ブラジル国内ではテレビやラジオ番組に出演し、試合の分析や選手の評価を行うことが多い。また、自身の経験をもとにした講演活動やイベントにも積極的に参加し、若い世代にサッカーの魅力を伝えている。

特に、彼のプレースタイルや技術は現代の選手たちにも影響を与えている。エラシコをはじめとするフェイント技術は、ロナウジーニョやネイマールなどのブラジル人選手に受け継がれ、今でも多くの選手が参考にしている。また、彼のフリーキックの精度は、ブラジルサッカーにおける「フリーキックの伝統」を築く基盤となり、ジーコやロベルト・カルロスといった名手たちにも影響を与えた。

一方で、監督としての活動は清水エスパルス退任後は行っておらず、指導者としての道には進んでいない。しかし、解説者としての活動を通じて、試合の戦術やプレースタイルについて独自の視点を提供し続けている。リベリーノの名前は今もなお、サッカーファンの間で語り継がれており、彼の影響はブラジル国内だけでなく、世界中のサッカー界に広がっている。

リベリーノ サッカー史に刻まれた左足

この記事のポイントをまとめよう。

  • 左足の精度と強烈なシュートで「左足の魔術師」と称された
  • フリーキックの名手として、壁を抜くトリッキーな技術を持っていた
  • 「エラシコ」フェイントを用い、相手ディフェンダーを翻弄した
  • コリンチャスではチームの中心選手として活躍するもタイトルには恵まれなかった
  • 1975年にフルミネンセへ移籍し、攻撃的なサッカーで才能を開花させた
  • フルミネンセでリオ州選手権を連覇し、クラブの黄金期を支えた
  • 1970年のワールドカップではペレらとともに優勝に大きく貢献した
  • 1974年のワールドカップでは東ドイツ戦の伝説的なフリーキックが話題となった
  • 1978年大会ではキャプテンを務めたが、負傷により十分な活躍ができなかった
  • ブラジル代表として122試合に出場し、43ゴールを記録した
  • 1979年にアル・ヒラルへ移籍し、中東のサッカー発展にも貢献した
  • 1982年に現役を引退し、サッカー解説者や評論家として活動を続けた
  • 1994年に清水エスパルスの監督に就任するも、半年で退任した
  • 現在もメディア出演や講演活動を通じてサッカー界に影響を与えている
  • そのプレースタイルと技術は、今も多くの選手に受け継がれている

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