
シニシャ・ミハイロビッチは、サッカー史に名を刻むフリーキックの名手であり、強烈なリーダーシップを持つ選手だった。
プレースタイルはセンターバックやリベロを主としながらも攻撃的で、精度の高いフリーキックで数々のゴールを決めた。特に、セリエAで達成したハットトリックは伝説となっている。
若い頃はユーゴスラビアで育ち、レッドスター・ベオグラードで欧州制覇。その後、セリエAへ渡り、ラツィオでスクデットを獲得し、晩年はインテルでも活躍した。代表ではストイコビッチとともにプレーし、チームを支えた。
引退後は監督としてミランやボローニャを指揮し、冨安健洋の成長を後押し。本田圭佑ともミランで共闘した。2019年に白血病を公表しながらも闘病し続けたが、2022年に逝去。彼の死因は病との戦いの末だったが、その功績は今も語り継がれている。
ミハイロビッチ サッカー界の伝説的フリーキッカー
- ミハイロビッチのプレースタイルとポジション
- 若い頃のミハイロビッチと初期のキャリア
- ラツィオ時代のミハイロビッチとセリエA制覇
- ユーゴスラビア代表時代とストイコビッチとの関係
- インテルでのキャリアと引退直前の活躍
- ミハイロビッチの背番号とその意味
ミハイロビッチのプレースタイルとポジション
ミハイロビッチは、守備的なポジションを主戦場としながらも、攻撃的なプレースタイルで存在感を発揮した。センターバックやリベロ、時には守備的ミッドフィールダーとしてプレーし、ディフェンスラインからの組み立てやロングフィードに優れていた。特に、左足から繰り出される強烈なフリーキックは、歴代のフリーキッカーの中でも屈指の精度と破壊力を誇る。
また、プレースタイルの特徴として、対人守備の強さとカバーリングの巧みさが挙げられる。フィジカルコンタクトを恐れず、タフな守備を展開する一方で、試合を読む力にも優れ、ボール奪取後には正確なパスで攻撃の起点となった。
一方で、ラフプレーが多い選手としても知られていた。熱血漢な性格も相まって、時にはファウルが目立つこともあり、審判と衝突する場面も少なくなかった。しかし、それも彼の勝利への執念の表れであり、チームメイトからは絶対的な信頼を得ていた。
若い頃のミハイロビッチと初期のキャリア
ミハイロビッチは、ユーゴスラビア(現在のセルビア)のヴコヴァルで生まれ、ボロヴォ・ナセリェで育った。プロキャリアのスタートは、地元クラブであるボロヴォ。その後、ヴォイヴォディナへ移籍し、そこでの活躍が評価され、国内の名門レッドスター・ベオグラードへ移籍を果たした。
レッドスターでは、移籍直後から主力としてプレーし、1990-91シーズンのUEFAチャンピオンズカップ(現・チャンピオンズリーグ)優勝に貢献した。特に、準決勝のバイエルン・ミュンヘン戦では、得意のフリーキックで先制ゴールを決め、決勝進出の立役者となった。この時点で、彼のフリーキックはすでにヨーロッパの舞台でも脅威と認識されていた。
レッドスターでの成功を経て、1992年にはイタリア・セリエAのローマへ移籍。これが彼の欧州トップリーグでの本格的な挑戦の始まりとなる。ローマでは、新たな環境に適応しながらも、守備的なポジションで存在感を発揮。セリエAのスタイルに馴染むとともに、戦術理解度を高め、より柔軟なプレーが求められる選手へと成長していった。
ラツィオ時代のミハイロビッチとセリエA制覇
ラツィオへ移籍した1998年、ミハイロビッチは自身のキャリアで最も輝かしい時期を迎えることになる。当時のラツィオは、スヴェン=ゴラン・エリクソン監督のもと、スクデット(セリエA優勝)を狙う強豪チームへと成長していた。その中で彼は守備の要としてだけでなく、攻撃の起点としても重要な役割を担った。
特に、1998年12月のサンプドリア戦では、フリーキックのみでハットトリックを達成。これはセリエA史上に残る伝説的な記録であり、フリーキッカーとしての評価を決定づけた。さらに、セットプレーの場面では、彼の左足の精度とパワーがラツィオの大きな武器となり、多くのゴールを演出した。
そして、1999-2000シーズン、ラツィオは悲願のセリエA制覇を成し遂げる。ディフェンスラインではネスタとコンビを組み、安定した守備を築いたことが、タイトル獲得の大きな要因となった。また、このシーズンはコッパ・イタリア優勝も果たし、国内2冠という快挙を達成している。
その後もラツィオで数シーズンプレーしたが、2004年にはインテルへ移籍。ラツィオ時代の成功が彼のキャリアにおける最高到達点だったことは間違いなく、彼のフリーキックと強靭なメンタリティは、クラブの歴史に刻まれることとなった。
ユーゴスラビア代表時代とストイコビッチとの関係
ミハイロビッチは、1991年にユーゴスラビア代表デビューを果たした。当時のユーゴスラビアは、世界屈指のタレントを擁する強豪国だったが、政治的な混乱によって大きな影響を受けることになる。1992年にはUEFA欧州選手権(EURO 92)に出場予定だったが、内戦の影響により大会直前で出場停止となった。その結果、チームは解体されることとなり、ミハイロビッチの代表キャリアも一時的に中断を余儀なくされた。
その後、ユーゴスラビアが国際大会へ復帰した1998年のフランスW杯では、主力メンバーの一員として出場。グループステージのイラン戦ではフリーキックでゴールを決め、チームの勝利に貢献した。また、当時のユーゴスラビア代表には、ストイコビッチやミヤトビッチ、サビチェビッチといったスター選手が揃っており、攻撃的なチームとして期待されていた。
ストイコビッチとは代表チームで長く共にプレーし、特に中盤と最終ラインでの連携は抜群だった。ストイコビッチは創造性あふれるプレーメーカーとして攻撃を司り、ミハイロビッチは守備とセットプレーの要として支えた。この2人の関係は、ユーゴスラビア代表の強さを象徴するものであり、多くのファンにとって記憶に残るコンビだった。
しかし、2000年のEUROを最後に代表チームは再び分裂し、ユーゴスラビアという国名での最後の国際大会となった。その後、ミハイロビッチはセルビア・モンテネグロ代表としてもプレーしたが、代表キャリアの終盤は短期間に終わった。
インテルでのキャリアと引退直前の活躍
2004年、ミハイロビッチはラツィオを離れ、インテルへ移籍した。当時のインテルは、ロベルト・マンチーニ監督のもとでチームを再建しており、経験豊富な選手の加入が求められていた。彼はセンターバックとしてチームに安定感をもたらし、またセットプレーのキッカーとしても大きな役割を果たした。
インテルでは、コッパ・イタリアやスーペルコッパ・イタリアーナでタイトルを獲得し、2005-06シーズンにはセリエA優勝も経験。このシーズンはカカ・カラッツォ、サネッティ、アドリアーノといった実力者が揃い、チームとしての完成度が高かった。ミハイロビッチ自身は出場機会が減少していたが、経験とリーダーシップを発揮し、若手選手に影響を与える存在となっていた。
2006年4月、セリエA史上最多となる28本目の直接フリーキックによるゴールを記録。これは、アンドレア・ピルロと並ぶリーグ最多記録であり、彼のフリーキックの精度と得点力の高さを証明するものだった。この試合が彼のプロキャリア最後のゴールとなり、その後2006年シーズン終了をもって現役を引退。
引退後はすぐにインテルでコーチとしてのキャリアをスタートさせ、監督業への第一歩を踏み出した。インテルでの晩年は、ピッチ上での活躍だけでなく、チームに経験と勝者のメンタリティを植え付けた点でも評価されている。
ミハイロビッチの背番号とその意味
ミハイロビッチがキャリアを通じて着用した背番号には、チーム内での役割やプレースタイルが反映されている。初期のヴォイヴォディナやレッドスター時代には「8番」や「11番」を着用し、攻撃的なミッドフィールダーとしてプレーしていた。しかし、セリエAへ移籍した後は守備的なポジションへと移行し、それに伴って背番号も変化していった。
ローマやサンプドリアでは「5番」や「11番」をつけることが多く、中盤やリベロとしての役割を果たしていた。特にサンプドリア時代は、スヴェン=ゴラン・エリクソン監督のもとでディフェンスラインの一角としての役割が強まり、より守備的なプレーが求められるようになった。
ラツィオでは「11番」をつけることが多く、フリーキッカーとしての象徴的な存在でもあった。この時期には、彼のフリーキックの技術が最大限に発揮され、多くの重要な試合で得点を記録した。通常、ディフェンダーが「11番」をつけることは珍しいが、それは彼が単なる守備の選手ではなく、攻撃においても決定的な仕事ができる選手だったことを示している。
インテルでは「11番」から「5番」へと変更し、より守備に専念する役割を担った。年齢とともにプレースタイルも変化し、攻撃参加よりも守備の統率やセットプレー時の得点源としての期待が高まっていた。
彼の背番号の変遷は、単なる数字の変化ではなく、ポジションや役割の移り変わりを象徴するものであり、ミハイロビッチのキャリアを語る上で欠かせない要素となっている。
ミハイロビッチ サッカー史に残る監督と影響
- 伝説のフリーキック ハットトリックとは?
- 監督としてのミハイロビッチのキャリア
- 冨安・本田との関係と評価
- 白血病との闘いとミハイロビッチの死因
- ミハイロビッチがサッカー界に残した功績
伝説のフリーキック ハットトリックとは?
ミハイロビッチがフリーキックの名手として歴史に名を刻んだ最も象徴的な試合は、1998年12月13日に行われたセリエAのラツィオ対サンプドリア戦だった。この試合で彼は、フリーキックのみで3得点を記録し、セリエA史上初となる「フリーキックによるハットトリック」を達成した。
通常、ハットトリックはフィールドプレーの中で生まれることが多い。しかし、この試合では彼の左足から放たれた3本のフリーキックすべてがゴールネットを揺らし、セットプレーのみで得点を重ねるという異例の快挙を成し遂げた。しかも、それぞれ異なるコース・軌道で決めたことが、彼の技術の高さを際立たせた。1本目はゴールキーパーの手の届かないファーサイドへ、2本目は壁の隙間を抜ける軌道で、そして3本目は強烈なスピードと精度でゴール左隅に突き刺さった。
この記録が達成されて以降、セリエAのみならず世界のフットボールシーンにおいて、ミハイロビッチは「史上最高のフリーキッカー」の一人として認識されるようになった。その後も直接フリーキックでの得点を重ね、**セリエA歴代最多のフリーキック得点(28得点)**という記録を保持する選手の一人となっている。
監督としてのミハイロビッチのキャリア
現役引退後、ミハイロビッチはすぐに指導者の道へ進んだ。最初のステップは、2006年にインテルのアシスタントコーチとして就任したことだった。当時の監督はロベルト・マンチーニであり、彼の下でコーチングの基礎を学んだ。
その後、2008年にボローニャの監督に就任し、本格的に指導者としてのキャリアをスタートさせた。以降、カターニア、フィオレンティーナ、サンプドリア、ミラン、トリノなどセリエAの複数クラブを渡り歩きながら、チームを指揮した。戦術的にはハードワークを重視し、規律を徹底するスタイルが特徴で、選手に対して強いリーダーシップを発揮する監督だった。
特に2013年から指揮を執ったサンプドリアでは、降格圏に沈んでいたチームを立て直し、翌シーズンにはUEFAヨーロッパリーグ出場権を獲得するまでの躍進を遂げた。また、2015年にはミランの監督に就任し、チーム再建に取り組んだものの、シーズン終盤で解任されるという苦い経験もした。
最も長く指揮を執ったのはボローニャで、2019年から2022年までチームを指導した。在任中に白血病を公表しながらも、治療を受けながら指揮を続ける姿勢は多くのサッカーファンや選手に感動を与えた。結果的に2022年に解任されたが、ボローニャのサポーターからは今でも「魂の指導者」として敬愛されている。
冨安・本田との関係と評価
ミハイロビッチは監督として、日本人選手と関わる機会も多かった。その中でも特に印象的なのが、冨安健洋と本田圭佑の2人である。
本田とは、2015-16シーズンのミランで共に戦った。当時のミハイロビッチは、クラブの再建を託されたが、チームの状態は決して良いものではなかった。本田は右サイドハーフとして起用され、守備やチームプレーの意識を求められる中で出場機会を得ていた。しかし、両者の相性は決して良好とは言えず、本田が不満を口にする場面もあった。ミハイロビッチは本田を「真面目で献身的な選手」と評価していたが、攻撃の中心としては考えていなかったようだ。そのため、ミラン時代の本田にとって、ミハイロビッチの戦術はやや窮屈なものだったといえる。
一方で、冨安に対する評価は非常に高かった。2019年にボローニャへ移籍した冨安は、当初はセンターバックとして起用されていたが、ミハイロビッチは「彼は本当に日本人か?あいつは必ず大物になるぞ」と絶賛し、右サイドバックとしてのプレーも積極的に求めた。その結果、冨安はポリバレントな守備者として成長し、アーセナルへの移籍を勝ち取ることができた。
また、ミハイロビッチは**「俺のトミヤスを代表戦で酷使するな」**と発言するなど、冨安を特別に信頼していたことが分かる。これは彼が単なる才能ある選手ではなく、監督から見ても信頼に値するプロフェッショナルだったことを示している。
結果的に、ミハイロビッチの指導があったからこそ、冨安は欧州トップリーグでも通用する守備者へと成長したといえる。ミハイロビッチにとっても、冨安は成功例の一つであり、日本人選手に対するポジティブな印象を持つきっかけになっただろ
白血病との闘いとミハイロビッチの死因
ミハイロビッチは、2019年7月に白血病を公表した。当時、彼はボローニャの監督としてチームを指揮していたが、突如として病と向き合うことを余儀なくされた。記者会見では、「私は戦う。これはサッカーの試合のようなものだ」と強い意志を示し、治療を受けながらも監督業を続ける決断を下した。この姿勢は、多くの選手やサポーターに勇気を与えた。
治療は決して順調ではなかったが、彼は何度も復帰を果たした。抗がん剤治療を受けながらも、チームの指揮を執るために病院から直接スタジアムに向かうこともあった。この強靭な精神力は、彼が現役時代から持ち続けていた「闘将」としての気質を象徴している。ボローニャの選手やスタッフも彼を支え、サポーターはスタジアムで大きな横断幕を掲げ、励ましのメッセージを送り続けた。
しかし、2022年に入ると体調が悪化し、治療を続けながらも9月にボローニャの監督を解任された。その後、病状がさらに進行し、同年12月16日、ローマの病院で53歳の若さで亡くなった。この訃報は、イタリアやセルビアだけでなく、世界中のサッカー関係者やファンに大きな衝撃を与えた。
彼の死後、多くのクラブや元チームメイトが哀悼の意を表した。特に親友だったロベルト・マンチーニは「本当の兄弟を失ったようだ」とコメントし、彼の死を悼んだ。また、冨安健洋や本田圭佑など、日本人選手もSNSで追悼の言葉を綴り、彼への感謝と敬意を表した。
ミハイロビッチがサッカー界に残した功績
ミハイロビッチがサッカー界に残した功績は数多い。まず、彼は史上最高のフリーキッカーの一人として記憶されている。セリエAでは通算28本の直接フリーキックを決め、アンドレア・ピルロと並ぶリーグ最多記録を保持している。この中でも、1998年のサンプドリア戦で達成したフリーキックによるハットトリックは、今もなお語り継がれる伝説となっている。
また、クラブレベルではラツィオのセリエA優勝(1999-2000シーズン)に貢献し、インテルでもリーグタイトルやカップ戦の優勝を経験した。特にラツィオでは、ネスタやベロンとともにチームの中核を担い、守備と攻撃の両面で重要な役割を果たした。
指導者としても、ボローニャやサンプドリア、ミランなどのクラブを率い、多くの選手を育成した。特にボローニャでは、冨安健洋をサイドバックにコンバートし、世界的なディフェンダーへと成長させたことが大きな功績の一つだ。彼の厳格な指導スタイルは、選手たちに強い精神力とプロ意識を植え付け、戦う姿勢を身につけさせた。
さらに、彼は自身のルーツであるセルビア代表の監督も務めた。ワールドカップ出場には至らなかったものの、セルビアの若手育成に貢献し、代表チームに戦術的な規律をもたらした。
ミハイロビッチの人生は、「戦うこと」の連続だった。ピッチ上ではタフなディフェンダーとして戦い、監督としては選手と共に戦い、最後は病と戦い続けた。彼の姿勢は、サッカーを愛するすべての人々に強い影響を与え、今後も多くの人々の記憶に残り続けるだろう。
ミハイロビッチがサッカー界に残した偉大な足跡
この記事のポイントをまとめよう。
- 守備的なポジションながら攻撃力も兼ね備えたプレースタイル
- センターバックやリベロとしてディフェンスラインを統率
- 左足のフリーキックは歴史に残る精度と破壊力を誇る
- レッドスター・ベオグラードで欧州制覇を経験
- セリエAのローマで本格的な欧州トップリーグ挑戦を果たす
- ラツィオ時代にセリエA優勝とコッパ・イタリアの二冠を達成
- 1998年にフリーキックのみでのハットトリックを達成
- ユーゴスラビア代表としてワールドカップやEUROに出場
- ストイコビッチと共にユーゴスラビア代表を支えた存在
- インテル移籍後もセットプレーでの決定力を発揮
- セリエA最多タイの28本の直接フリーキックゴールを記録
- 監督としてボローニャやミランなどのクラブを指揮
- 冨安健洋の才能を見抜き、欧州トップクラスのDFへと成長させた
- 白血病と闘いながらも監督業を続け、強い意志を示した
- サッカー界に多くの功績を残し、戦う姿勢で多くの人々を魅了した