
ジャイッチは、ユーゴスラビア史上最高の左ウイングの一人として知られる伝説的な選手だ。彼のプレースタイルは、スピードとテクニックを活かしたドリブル突破と、正確なクロスを武器とした攻撃的なものだった。主なポジションは左ウイングで、ゴールを狙う得点力とチャンスメイクの両方を兼ね備えていた。
クラブキャリアでは、レッドスター・ベオグラードで長年活躍し、数々のリーグ優勝に貢献。後にフランスのSCバスティアへ移籍し、海外リーグでも実力を証明した。ユーゴスラビア代表としても活躍し、1968年欧州選手権準優勝や1974年ワールドカップでの活躍が特に有名だ。
引退後は、レッドスター・ベオグラードのテクニカルディレクターや会長としてクラブ経営に携わり、2023年にはセルビアサッカー協会の会長に就任。選手、指導者、経営者として、サッカー界に多大な影響を与え続けている。
ジャイッチの輝かしいキャリアと実績
- ジャイッチのプレースタイルと特徴
- ジャイッチのポジションと役割
- レッドスター・ベオグラードでの活躍
- SCバスティアでの挑戦と評価
- ユーゴスラビア代表での歴史的瞬間
ジャイッチのプレースタイルと特徴
ジャイッチは、高度なテクニックとスピードを兼ね備えた左ウイングだった。彼のプレースタイルは、巧みなドリブル突破、正確なクロス、そして自ら得点を狙う攻撃力を特徴としていた。
特に左サイドからのカットインや精度の高いクロスは、相手ディフェンスにとって脅威となった。単にサイドを駆け上がるだけでなく、状況に応じて中央へ切り込んでゴールを狙うプレーも得意とし、相手守備陣を翻弄する場面が多く見られた。
また、試合を読む能力も優れていた。スピードだけに頼らず、相手の守備の隙を見極めて最適なタイミングで仕掛ける判断力があった。そのため、単独での突破に加え、味方との連携を活かしたプレーも効果的だった。
しかし、このプレースタイルには弱点もあった。スピードを活かしたプレーが多いため、相手チームから激しいマークを受けることが頻繁にあった。特にフィジカルコンタクトの強い相手には動きを制限される場面もあったが、それでもジャイッチは巧みなボールコントロールと冷静な判断で相手の圧力をかわし、試合を支配する力を持っていた。
このように、ジャイッチは卓越した技術と戦術眼を兼ね備えた選手であり、その華麗なプレーは今なお語り継がれている。
ジャイッチのポジションと役割
ジャイッチは、主に左ウイングとしてプレーし、攻撃の中心を担った。当時のサッカーにおいてウイングの役割は、単なるサイドアタッカーにとどまらず、試合の流れを作り出す重要な存在だった。
ジャイッチの主な役割は、左サイドからの突破とチャンスメイクだった。スピードとドリブル技術を活かして相手ディフェンスを崩し、正確なクロスで得点機を演出した。特にセンターフォワードとのコンビネーションは抜群で、多くのアシストを記録している。また、自らも積極的にゴールを狙い、得点力のあるウイングとしての存在感を発揮した。
一方で、ジャイッチは守備にも一定の貢献をしていた。当時のウイングプレーヤーとしては珍しく、チーム全体のバランスを考えたポジショニングを取ることができた。カウンター時には素早く戻り、相手の攻撃を遅らせる役割も果たした。
ただし、現代サッカーと比較すると、当時のウイングは守備のタスクが少なく、ジャイッチも攻撃的な役割に重点を置いていた。そのため、ボールを奪われた際の切り替えは現在のウイングほど素早くはなく、相手に攻撃のチャンスを与える場面もあった。しかし、彼の圧倒的な攻撃力を考えれば、これはチームにとって十分に許容範囲だったといえる。
このように、ジャイッチは左ウイングの選手として、スピード・ドリブル・パス・得点力を兼ね備えた選手だった。彼のようなオールラウンドなウイングは、現代サッカーにおいても貴重な存在であり、多くの選手がそのプレースタイルを参考にしている。
レッドスター・ベオグラードでの活躍
ジャイッチは、レッドスター・ベオグラード(ツルベナ・ズベズダ)でクラブの象徴的な存在となった。17歳でトップチームデビューを果たすと、すぐにレギュラーに定着し、左ウイングとして攻撃の中心を担った。卓越したドリブル技術と正確なクロスで、チームの得点を演出し続けた。
特に1960年代後半から1970年代初頭にかけて、ジャイッチの活躍はクラブの成功に直結した。彼が在籍した期間にレッドスターは3度のリーグ優勝(1967-68、1968-69、1969-70シーズン)を果たし、ユーゴスラビア国内で圧倒的な強さを誇った。この間、彼は数多くのゴールとアシストを記録し、攻撃の中心選手として活躍した。
また、ヨーロッパの舞台でも実績を残している。特に1970-71シーズンのチャンピオンズカップでは準決勝に進出し、ギリシャのパナシナイコスと対戦。しかし、第2戦でのジャイッチの欠場が響き、アウェーゴール差で決勝進出を逃した。この敗退は、クラブにとって大きな挫折となったが、ジャイッチの存在がいかに重要だったかを示す出来事でもあった。
ジャイッチは個人としてもクラブのレジェンドと認められ、レッドスターの「星人(ズベズディナ・ズベズダ)」の一人として称えられた。この称号はクラブの歴史に名を残した偉大な選手に贈られるものであり、彼の功績がいかに大きかったかを物語っている。
SCバスティアでの挑戦と評価
ジャイッチは、1975年に長年所属したレッドスター・ベオグラードを離れ、フランスのSCバスティアに移籍した。これは、彼にとって初めての海外挑戦であり、新たな環境での適応が求められる移籍だった。
SCバスティアはフランス・ディヴィジョン1(現リーグ・アン)に所属するクラブであり、当時は中堅クラブの一つとして戦っていた。ジャイッチはここで主力選手としてプレーし、チームの攻撃を牽引した。特に、彼のドリブルと正確なクロスは、フランスリーグでも高く評価された。
2シーズンの在籍期間で、ジャイッチは公式戦31ゴールを記録。特にセットプレーの精度とサイドからのチャンスメイク能力が際立ち、チームの得点力向上に貢献した。しかし、バスティアはタイトル争いに加わることはできず、ジャイッチ個人のパフォーマンスは評価されたものの、チームとしての成功には恵まれなかった。
このように、ジャイッチのフランスでの挑戦は、個人として一定の成功を収めたものの、チームとしては大きなタイトルを獲得することはできなかった。彼のプレーは現地メディアからも好意的に評価されたが、最終的には1977年にレッドスターへ復帰することを決断した。
ユーゴスラビア代表での歴史的瞬間
ジャイッチは、ユーゴスラビア代表の歴史に残る活躍を見せた選手の一人だった。18歳で代表デビューを果たし、その後長年にわたってチームの中心としてプレーした。代表戦での通算85試合出場は、当時の最多記録であり、ユーゴスラビア代表にとって欠かせない存在だった。
1968年のUEFA欧州選手権では、ジャイッチの活躍が際立った。準決勝のイングランド戦では、試合終了間際に決勝ゴールを決め、ユーゴスラビアを決勝へと導いた。このゴールは、イングランドの堅守を一人で打ち破ったプレーとして語り継がれており、英国メディアからは「マジック・ドラガン」と称賛された。決勝ではイタリアと対戦し、一度はジャイッチのゴールでリードを奪ったものの、最終的には再試合の末に敗れ、準優勝となった。
また、1974年のFIFAワールドカップ・西ドイツ大会にもキャプテンとして出場。この大会では1次リーグを突破し、2次リーグまで進出した。特にザイール戦では9-0の大勝を収め、その試合でジャイッチもゴールを決めている。しかし、2次リーグでは西ドイツやポーランドに敗れ、準決勝進出はならなかった。
ジャイッチは代表で数々の名シーンを生み出し、ユーゴスラビアサッカーの歴史に名を刻んだ。彼の技術とリーダーシップは、多くの選手に影響を与え、その後のユーゴスラビア代表にも受け継がれていった。
ジャイッチの引退後とその影響
- 引退後のサッカー界での活動
- レッドスター・ベオグラードの会長としての功績
- セルビアサッカー協会での役割
- 現代のサッカー界への影響と評価
引退後のサッカー界での活動
ジャイッチは、現役引退後もサッカー界で重要な役割を担い続けた。彼の豊富な経験と知識は、クラブ経営やサッカー協会の運営において大きな影響を与えた。
引退直後の1978年、彼はレッドスター・ベオグラードのテクニカルディレクター(TD)に就任。選手のスカウトや戦略の立案を担当し、チームの強化に尽力した。その結果、レッドスターは1980年代に国内リーグで成功を収めるだけでなく、UEFAカップ準優勝(1978-79シーズン)という国際舞台での成果も挙げた。
1986年には、クラブの「欧州制覇5カ年計画」を推進し、若手選手の育成と補強を進めた。このプロジェクトでは、後に欧州王者となるレッドスターの基盤が築かれた。ストイコビッチ、サビチェビッチ、プロシネツキといった才能ある選手を発掘し、世界的なクラブへと成長させた。
また、ジャイッチはセルビアサッカー協会(FSS)にも関わり、国内サッカーの発展に貢献した。長年にわたって協会の運営に携わり、2023年には正式に会長に就任している。このように、彼の影響力はクラブ経営だけでなく、サッカー界全体に及んでいる。
ただし、2008年には選手の移籍に関する詐欺容疑で起訴され、一時的に公職から退くことを余儀なくされた。しかし、2012年に大統領の恩赦を受け、無罪放免となった。これにより、彼は再びサッカー界に復帰し、レッドスターの会長職にも復帰している。
ジャイッチの引退後のキャリアは、単なる名選手として終わらず、サッカークラブの経営者、協会のリーダーとしても重要な役割を果たし続けたことを示している。
レッドスター・ベオグラードの会長としての功績
ジャイッチは、1998年にレッドスター・ベオグラードの会長に就任した。当時のクラブは、ユーゴスラビア紛争の影響で財政的な困難に直面しており、チームの再建が求められていた。
彼の最初の大きな成果は、1999-2000シーズンの国内リーグとカップの2冠達成だった。これにより、クラブの競争力を維持し、ファンの期待に応えることができた。翌シーズンもリーグ連覇を果たし、国内での優位性を確立した。しかし、クラブの財政状況は依然として厳しく、有力選手の流出が続いたため、ヨーロッパの舞台での成功には至らなかった。
2004年には健康問題と経営のプレッシャーから会長職を辞任。しかし、2008年には選手の移籍に関する不正疑惑で起訴されるというスキャンダルに巻き込まれた。スペインのクラブへの移籍に絡んだ詐欺容疑が問題となり、一時的に公職を退くことを余儀なくされた。しかし、2012年にセルビア大統領の恩赦を受け、無罪となったことで再びサッカー界へ復帰した。
その後、2012年末には再びレッドスターの会長に復職。この時期には、クラブの財政状況を改善し、若手選手の育成に力を入れる方針を打ち出した。レッドスターは徐々に復活し、国内リーグでの安定した成績を取り戻していった。
ジャイッチの会長としての功績は、クラブの厳しい時期にリーダーシップを発揮し、経営の立て直しに尽力したことにある。特に選手の発掘・育成の手腕は高く評価され、彼が手掛けたクラブ強化策は、現在のレッドスターにも受け継がれている。
セルビアサッカー協会での役割
ジャイッチは、セルビアサッカー協会(FSS)において長年にわたり重要な役割を果たしてきた。2023年3月には正式に会長に就任し、セルビアサッカー界の発展と組織運営の改善に尽力している。
彼の役割の一つは、国内リーグの強化とクラブの国際競争力向上にある。ユーゴスラビア時代の名選手としての経験を活かし、若手選手の育成を重視する方針を掲げている。特にセルビア国内の有望な選手を欧州のトップクラブに送り出すための支援体制の強化に取り組んでおり、育成システムの充実が進められている。
また、代表チームの強化も彼の重要なミッションの一つである。セルビア代表は、個々のタレントに恵まれているものの、一貫した戦略の欠如が課題となってきた。ジャイッチは、監督の選定や育成方針の策定を通じて、セルビア代表の長期的な成長を目指している。特に、若手選手の積極的な起用や、欧州クラブとの連携強化を進めることで、代表チームの競争力を高めようとしている。
一方で、協会の運営においては、財政面の透明性向上や組織改革にも取り組んでいる。これまでのセルビアサッカー協会は、不透明な資金管理や政治的な問題を抱えていたが、ジャイッチはその改善に向けた改革を進めている。ただし、長年の慣習を変えることは容易ではなく、今後の成果が問われることになる。
このように、ジャイッチはセルビアサッカー協会のトップとして、国内リーグの発展、代表チームの強化、組織改革といった幅広い課題に取り組んでいる。彼のリーダーシップが、今後のセルビアサッカーの未来を左右することは間違いない。
現代のサッカー界への影響と評価
ジャイッチは、プレーヤーとしてだけでなく、指導者や経営者としてもサッカー界に大きな影響を与え続けている。そのスタイルと哲学は、現代のサッカーにも色濃く反映されている。
彼のプレースタイルは、テクニックを重視した攻撃的なサッカーに大きな影響を与えた。特に左ウイングとしての役割は、後の選手たちに多くのインスピレーションを与えている。スピードとドリブルだけでなく、試合を読む力や正確なクロスの重要性を示したジャイッチのプレーは、現在のウイングプレーヤーの手本とされることが多い。
また、クラブ経営者としての手腕も評価されている。レッドスター・ベオグラードの黄金期を支えた「欧州制覇5カ年計画」は、若手育成と戦略的な補強の成功例として、多くのクラブに影響を与えた。現代のクラブ経営においても、資金力だけでなく育成とスカウトの重要性が叫ばれる中、ジャイッチの実績は示唆に富んでいる。
一方で、彼のキャリアにはスキャンダルも付きまとった。2008年の詐欺容疑による起訴は、クラブ経営の闇の部分を浮き彫りにし、彼の評価に一定の影を落とした。しかし、その後恩赦を受け、再びサッカー界に復帰したことは、彼の影響力の大きさを物語っている。
現代のサッカー界において、ジャイッチの功績は多方面にわたる。プレーヤーとしての技術的な影響、クラブ経営者としての手腕、そして協会運営におけるリーダーシップ。これらの要素が組み合わさることで、彼の名は今もなお語り継がれ、後進の選手や指導者に影響を与え続けている。
ジャイッチの功績と影響
この記事のポイントをまとめよう。
- 卓越したテクニックとスピードを兼ね備えた左ウイングだった
- ドリブル突破と正確なクロスで多くのチャンスを生み出した
- レッドスター・ベオグラードでクラブの象徴的な存在となった
- 1960年代後半から1970年代にかけてリーグ優勝に貢献した
- ユーゴスラビア代表として85試合に出場し活躍した
- 1968年欧州選手権で決勝ゴールを決め「マジック・ドラガン」と称された
- 1974年W杯ではキャプテンとしてチームを牽引した
- SCバスティアで海外リーグに挑戦し、フランスでも評価された
- 引退後はレッドスターのテクニカルディレクターとしてチーム強化に尽力した
- 1986年に「欧州制覇5カ年計画」を立案し若手育成を推進した
- 1998年にレッドスターの会長に就任しクラブ経営を主導した
- 2008年に移籍問題で起訴されるが、後に恩赦を受けて復帰した
- 2023年にセルビアサッカー協会の会長に就任し国内サッカー改革を進めた
- 現代サッカーにも影響を与え、多くの選手が彼のスタイルを参考にしている
- クラブ経営者・指導者としての手腕も評価され続けている