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ボバンのプレースタイル徹底解説|戦術理解と多彩な適応力

ボバンのプレースタイル徹底解説|戦術理解と多彩な適応力
↑イメージ:フットボール・レジェンダリー

ボバンは、戦術理解と柔軟な適応力を持つミッドフィールダーだ。ボバンのポジションは、トップ下を本職としつつ、中盤の底や左サイドだった。

彼のキャリアはディナモ・ザグレブで始まり、19歳でキャプテンを務めるなど、早くからリーダーシップを発揮。その後、セリエAのミランへ移籍し、黄金期の一員としてタイトル獲得に貢献した。クロアチア代表では、1998年ワールドカップでモドリッチ以前の司令塔としてチームを3位に導く。

また、1990年の飛び蹴り事件は、クロアチア独立の象徴となり、彼を歴史的な存在へと押し上げた。現在は現役を退き、FIFAやUEFAで重要な役職を歴任。

ボバンの影響力は今なおサッカー界に息づいている。本記事では、彼のプレースタイルや軌跡を詳しく解説していく。

この記事でわかること

  • ボバンのプレースタイルの特徴と戦術理解の高さ
  • トップ下を中心に複数のポジションで活躍した適応力
  • ACミランやクロアチア代表での役割と実績
  • サッカー界やクロアチア独立運動への影響

ボバンのプレースタイルの特徴と魅力

  • ボバンのポジションは?柔軟な適応力
  • ディナモ・ザグレブ時代のボバン
  • ACミランで輝いたボバンの戦術理解
  • クロアチア代表での活躍とリーダーシップ

ボバンのポジションは?柔軟な適応力

ボバンは攻撃的ミッドフィールダー(トップ下)を本職としていたが、プレースタイルの特性上、中央やサイドの様々な役割をこなすことができた。特にACミラン時代には、戦術的な柔軟性を求められ、トップ下だけでなく、セントラルミッドフィールダーや守備的ミッドフィールダーとしても起用されている。

本来、ボバンは攻撃の起点となるプレーメーカーとしての能力に優れていた。正確なパスと広い視野を活かし、試合をコントロールする力を持っていたため、攻撃の中心となるトップ下のポジションが最も適していた。しかし、チーム事情や監督の戦術によっては、中盤の底でゲームを組み立てる役割や、左サイドでのプレーも求められた。実際、1998-99シーズンのACミランでは、戦術の変化によってトップ下に戻ることで本来の輝きを取り戻し、スクデット獲得に大きく貢献している。

また、クロアチア代表ではキャプテンとしてチームを牽引し、中盤の中心として攻守にわたって活躍した。攻撃の組み立てだけでなく、守備時には相手のボールを奪い、前線へ正確なパスを供給する役割も果たしていた。そのため、ボバンは単なる攻撃的ミッドフィールダーではなく、どのポジションでも高い戦術理解度を発揮し、チームに貢献できる選手だった。

ディナモ・ザグレブ時代のボバン

ボバンはクロアチアの名門クラブ、ディナモ・ザグレブでプロキャリアをスタートさせた。1985年に16歳でトップチームに昇格し、若くしてその才能を開花させた。特に際立っていたのは、ゲームを支配する能力と得点力の高さだった。

ディナモ・ザグレブでのプレーを通じて、彼のプレースタイルが確立されていった。正確なパスを武器に試合をコントロールし、時には自らゴールを決めることもできる攻撃的なミッドフィールダーとして成長していった。19歳の若さでチームのキャプテンを任されたことも、そのリーダーシップの高さを証明している。この時期に培われた責任感は、後のクロアチア代表キャプテンとしての活躍にもつながっていく。

しかし、ボバンのディナモ・ザグレブ時代は、単なるサッカーキャリアだけでは語り尽くせない。1990年、ディナモ・ザグレブ対レッドスター・ベオグラードの試合で発生した暴動の中、ボバンが警官に飛び蹴りをした事件は有名だ。この出来事はクロアチアの独立運動とも結びつき、ボバンの名をサッカー界だけでなく、政治の舞台でも広く知らしめることとなった。この行動によって9か月の出場停止処分を受け、1990年のワールドカップ・イタリア大会への出場を逃したが、それでも彼の愛国心は揺るがなかった。

その後、1991年にイタリアの名門ACミランへ移籍し、さらなる飛躍を遂げることになる。ディナモ・ザグレブでの経験は、ボバンの戦術的な知性と精神的な強さを育んだ重要な時期であり、彼のキャリアの基盤を築いたといえる。

ACミランで輝いたボバンの戦術理解

ボバンは1991年にACミランへ移籍し、その後の10年間にわたってチームの中核として活躍した。彼の戦術理解度の高さは、当時のミランが採用していたシステムにおいて欠かせない要素となっていた。

ミラン加入当初は外国人枠の影響もあり、十分な出場機会を得られなかった。しかし、1992-93シーズンから徐々に出場機会を増やし、カペッロ監督のもとでチームの一員として機能し始める。当時のミランは、守備の堅さを武器にしながらも攻撃的なパスワークを重視するスタイルを確立していた。ボバンは、その中盤におけるリンクマンとしての役割を果たし、試合のリズムを作る存在となっていく。

特に印象的なのは、1998-99シーズンの活躍だった。このシーズン、ミランは3-4-3のフォーメーションを採用していたが、開幕当初は機能せず苦戦していた。しかし、戦術を変更し、ボバンをトップ下に配置したことでチームの攻撃が活性化。彼の正確なパスと視野の広さが前線の選手を生かし、スクデット獲得の原動力となった。ザッケローニ監督はシーズン終了後、ボバンを「バロンドールに値する選手」と評するほど、その貢献度は高かった。

ボバンの戦術的な柔軟性も、彼がミランで成功を収めた理由の一つだ。本来はトップ下の選手だったが、チームの状況によっては中央の低い位置や左サイドにも適応し、監督の求める役割を的確にこなした。攻撃時にはゲームメイクを担当し、守備時には中盤のバランスを取るなど、戦術的な知性が光る選手だった。

また、ボバンは試合中の状況判断に優れ、相手の動きを予測しながらプレーする能力を持っていた。そのため、カペッロやザッケローニといった名将からの信頼も厚かった。単なる技術の高さだけでなく、試合全体を俯瞰する力を持っていたことが、彼がミランで成功を収めた最大の要因といえる。

クロアチア代表での活躍とリーダーシップ

ボバンはクロアチア代表の中心選手として、チームを牽引する役割を果たした。特に、1990年代のクロアチア代表は国際舞台における躍進期であり、彼の存在がチームに与えた影響は大きい。

クロアチアが初めて欧州選手権に出場したUEFA EURO '96では、ボバンはキャプテンとして中盤を統率。グループリーグではデンマーク戦でゴールを決めるなど、攻守にわたって活躍した。チームはベスト8で敗れたものの、クロアチアが国際大会で戦える実力を持つことを証明する大会となった。

その2年後、1998年のワールドカップ・フランス大会では、クロアチア代表の中心選手として大きな役割を担った。この大会では、グループリーグの日本戦を除く6試合に出場し、準々決勝のドイツ戦ではアシストを記録。クロアチアは強豪ドイツを3-0で破る快挙を成し遂げ、歴史的な勝利となった。しかし、準決勝のフランス戦ではボバンのミスが決勝点につながってしまい、惜しくも敗退。それでも、3位決定戦でオランダを破り、初出場ながらワールドカップ3位という快挙を成し遂げた。

ボバンのリーダーシップは、ピッチ上だけでなく、チームの精神的支柱としての役割にも表れていた。クロアチアが独立したばかりの時期、代表チームは国の誇りを背負う存在だった。その中で、ボバンは選手たちをまとめ、強い結束力を生み出していた。彼の発言や行動にはチームメイトからの信頼があり、クロアチア代表が国際舞台で成功を収める上で重要な役割を果たしていた。

また、ボバンは試合で得た報酬の一部を戦争で被害を受けた孤児たちの支援に充てるなど、社会的な貢献も積極的に行っていた。このような姿勢も、多くのクロアチア国民から愛される理由の一つだった。

彼の代表キャリアは1999年のフランス戦が最後となったが、クロアチアサッカー界に与えた影響は今なお大きい。ボバンの後継者ともいえるルカ・モドリッチも、彼を憧れの存在としており、その精神は次世代の選手たちにも受け継がれている。

ボバンのプレースタイルと影響を受けた選手

  • ルカ・モドリッチとの共通点と違い
  • 伝説の飛び蹴り事件と影響
  • ボバンの背番号は?10番の意味
  • 現在のボバンとサッカー界での活動
  • ボバンのプレースタイルが残した影響

ルカ・モドリッチとの共通点と違い

ボバンとルカ・モドリッチは、どちらもクロアチアを代表するミッドフィールダーであり、プレースタイルやリーダーシップに共通点が多い。特に、ゲームを組み立てる能力や視野の広さは、両者の大きな特徴といえる。

ボバンとモドリッチはともに中盤の司令塔として活躍し、攻撃と守備の両面で高い貢献度を誇った。どちらも正確なパスと優れた戦術眼を持ち、試合の流れをコントロールする能力に長けている。また、フィジカル的に圧倒的な強さを持つタイプではないものの、機動力と賢いポジショニングで相手の守備をかいくぐるプレースタイルは共通している。

一方で、プレースタイルにはいくつかの違いもある。ボバンはより攻撃的な選手であり、ミランではトップ下や左サイドでプレーすることが多かった。一方、モドリッチは中盤の底やボックス・トゥ・ボックスの役割を担い、より広範囲をカバーする動きが求められる。さらに、ボバンはフィニッシュや決定的なアシストに関与することが多かったが、モドリッチは試合全体のリズムを作ることを重視する傾向にある。

また、代表チームでの実績にも違いがある。ボバンは1998年ワールドカップでクロアチアを3位に導いたが、モドリッチは2018年ワールドカップで準優勝を果たし、大会最優秀選手にも選ばれた。この点で、国際舞台での成功度はモドリッチの方が上といえるかもしれない。

どちらの選手もクロアチアサッカーの歴史に名を刻んでおり、それぞれの時代でチームの中心として活躍した。ボバンが築いた土台の上に、モドリッチがさらなる成功を積み上げたという見方もできるだろう。

伝説の飛び蹴り事件と影響

ボバンのキャリアの中で最も象徴的な出来事の一つが、1990年5月13日に起きた「飛び蹴り事件」だ。これは、ディナモ・ザグレブ対レッドスター・ベオグラードの試合中に発生した暴動の中で起こった出来事であり、彼のサッカー人生だけでなく、クロアチアの歴史にも大きな影響を与えた。

当時の旧ユーゴスラビアでは、クロアチアとセルビアの対立が激化していた。この試合は、そうした政治的緊張の中で行われ、試合前から両チームのサポーターが衝突していた。セルビア人で構成されていた警察は、クロアチアのサポーターを一方的に鎮圧しようとし、暴力的な取り締まりが行われていた。

この光景を目の当たりにしたボバンは、クロアチアのサポーターを守るために警官に向かって飛び蹴りを放った。この行動は瞬く間に話題となり、彼は9か月の出場停止処分を受け、1990年のワールドカップ・イタリア大会に出場できなくなった。しかし、この事件をきっかけにボバンは「クロアチア独立の象徴」となり、サッカー選手を超えた存在として国民に支持されるようになった。

その後、クロアチアは1991年に独立し、1998年のワールドカップでは自国を3位に導く活躍を見せた。この事件が直接クロアチア独立につながったわけではないが、ボバンの行動がクロアチア人の団結を促し、ナショナルアイデンティティの確立に寄与したのは間違いない。

サッカー選手が政治的な出来事に関与することは賛否が分かれるが、ボバンの場合、その勇敢な行動がクロアチアの歴史の一部となり、今でも語り継がれている。

ボバンの背番号は?10番の意味

ボバンはキャリアを通じてさまざまな背番号をつけたが、最も象徴的なのは「10番」だった。特にACミランとクロアチア代表では、この番号を背負い、チームの司令塔としてプレーしている。

サッカーにおいて10番は、伝統的に攻撃の中心となる選手がつける番号とされている。ボバンも例外ではなく、トップ下や中盤の要としてプレーし、ゲームを組み立てる役割を担っていた。彼の正確なパスや広い視野、冷静な判断力は、まさに10番にふさわしいプレースタイルといえる。

ACミランでは、1990年代の黄金期に10番をつけ、チームの攻撃を支えた。特に1998-99シーズンは、トップ下として攻撃の中心になり、ミランのスクデット獲得に大きく貢献している。彼の存在があったからこそ、ミランは当時のセリエAを支配する強豪クラブとして君臨することができた。

クロアチア代表でも10番を背負い、1998年のワールドカップでチームを3位に導いた。このときの彼の活躍は、クロアチアサッカー史において特別な意味を持ち、のちにモドリッチがこの背番号を引き継いだことも象徴的だ。

一方で、ミランではボバン以降の10番が必ずしも成功しているわけではなく、「呪われた番号」とも言われることがある。彼の後にこの番号を背負った選手の中には期待に応えられなかった者も多く、それだけ彼の存在が特別だったことを示している。

ボバンにとって10番は、単なる背番号ではなく、チームの中心選手としての責任を示すものであった。そのプレースタイルやリーダーシップは、今なおクロアチアサッカー界に影響を与えている。

現在のボバンとサッカー界での活動

ボバンは現役引退後、サッカー界でさまざまな役職を務めてきた。解説者やスポーツジャーナリストとしての活動を経て、2016年にはFIFA(国際サッカー連盟)の副事務局長に就任。VAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)の導入など、現代サッカーのルール改革にも関与した。

2019年には古巣ACミランに戻り、クラブのチーフ・フットボール・オフィサー(CFO)としてチーム再建に尽力した。パオロ・マルディーニとともにミランの強化を目指したが、クラブの経営陣との対立が表面化し、わずか9か月で退任することとなった。この出来事は当時のサッカー界でも大きな話題となった。

その後、2021年4月にはUEFA(欧州サッカー連盟)のサッカー部門のトップに就任。欧州サッカーの発展に貢献していたが、2024年1月、UEFA会長の任期制限を撤廃する法案に抗議し、辞任を発表。組織の透明性や公平性に対する強い信念を貫いた形となった。

現在のボバンは、サッカー界の権力機構から一歩距離を置いているが、その影響力は依然として大きい。現場復帰の可能性も含め、今後どのような形でサッカー界に関わっていくのか、注目されている。

ボバンのプレースタイルが残した影響

ボバンのプレースタイルは、単なるテクニックの優れたミッドフィールダーにとどまらず、現代サッカーにおいても重要な要素を示した。彼のプレーは、単独での突破や得点力だけでなく、ゲームを支配し、味方を生かす能力に長けていた。

特に、攻撃的ミッドフィールダーとしてだけでなく、チームのバランスを考えたプレーをする選手としての側面は、現代のボックス・トゥ・ボックス型ミッドフィールダーの手本となっている。ルカ・モドリッチをはじめとするクロアチアの後進の選手たちにも、大きな影響を与えたことは間違いない。

また、ボバンの戦術理解度の高さは、監督の意図を的確に理解し、試合中の状況に応じて役割を変えるという点で、現在のトップレベルのミッドフィールダーに求められる要素と一致する。これにより、ボバンのような多才な選手が重宝される流れが生まれ、近年のサッカー界でも類似したプレースタイルの選手が増えている。

さらに、彼のリーダーシップと闘志も、多くの選手に影響を与えた。単なる技術的な貢献にとどまらず、チームを鼓舞し、戦う姿勢を示すことの重要性を証明した。1998年ワールドカップでのクロアチア代表の成功は、その象徴的な例といえるだろう。

ボバンのプレースタイルは、サッカーの進化とともに形を変えながらも、多くの選手に受け継がれている。彼の持つ戦術的な知性と献身的な姿勢は、これからもサッカー界で語り継がれていくに違いない。

ボバンのプレースタイルの特徴と影響

この記事のポイントをまとめよう。

  • 攻撃的ミッドフィールダーを本職としながら複数のポジションで活躍
  • 正確なパスと広い視野で試合をコントロールする能力を持つ
  • ACミランではトップ下やセントラルミッドフィールダーとして機能
  • クロアチア代表ではキャプテンとして攻守のバランスを取る役割を果たした
  • ディナモ・ザグレブ時代に若くしてキャプテンに就任しリーダーシップを発揮
  • 1990年の飛び蹴り事件をきっかけにクロアチア独立の象徴となる
  • ACミランでは戦術理解度の高さで複数のフォーメーションに適応
  • 1998-99シーズンにトップ下として復帰しスクデット獲得に貢献
  • 1998年ワールドカップではクロアチア代表の3位入賞に大きく貢献
  • モドリッチと共通点が多いが、ボバンはより攻撃的なプレースタイル
  • クロアチア代表の躍進を支え、後の世代の選手に影響を与えた
  • 10番を背負い、司令塔としてチームを牽引する存在だった
  • 現役引退後はFIFAやUEFAの要職に就きサッカー界で活躍
  • サッカーだけでなく、戦争や政治とも関わりを持つ影響力を持った人物
  • そのプレースタイルと精神は現代サッカーにも受け継がれている

-MF, 名選手